悪の教典とライク・サムワン・イン・ラブを観てきたよ

香港で日本語の映画を2本観て参りました。
悪の教典は期待通りのちょうどいい所って感じ。アメリカの銃社会批判とか、そんな要素がちょろっと出てくるのは不要なんじゃないかなーとは思うけど、まあいいんじゃないでしょうか。ドラム叩いてパンツの匂いをかぐだけの山田孝之とか、染谷将太の退場のタイミングとか、贅沢でいいですよね。あとホモとか殺人とかてんこ盛りなんだから、どうせなら伊藤英明さんがきのこを食うシーンとか欲しかったですよね。少なくとも伊藤英明さんは海で困ってる人を助けるよりも、淡々と人を射殺する役のほうが遥かに似合ってると思います。
あ、それと「鈴木先生」「桐島、部活やめるってよ」という最近の学園モノの傑作とキャストが結構被ってるのって絶対わざとですよね。岬カッコ良かったなー。いい役だった。あと酢豚の樺山もいましたよね。




そして「ライク・サムワン・イン・ラブ
これがもう、とんでもない、本当に途方も無い大傑作。最初のシーンの異常なフレームとセリフの構造からはっきり分かるんだけど、これはコミュニケーションとディスコミュニケーションの連続で成り立っている世界なんだよね。セリフが聞こえてるのに、そのセリフを喋っている人間がフレームに入ってこない。そして会話をする相手が同じフレームに入らない。そんな観客とスクリーンの間で情報の共有を拒否するかのような姿勢と、その場から聞こえてくるざわざわとした余計な会話の数々。圧倒的なディスコミュニケーション
それが最初は異物として喉に引っかかるんだけど、それが段々と快感になってきたオープニングのシークエンスの後でやってくる、新宿の夜の街の風景と留守番電話のシーン。ここでもはっきりと見えてくるディスコミュニケーション。その心の襞を蝕んでくる切なさ。もう最初のこの2シーンだけで心を掴まれてしまった。鳥肌が立った。
その後も広がるコミュニケーションとディスコミュニケーションの世界と、そこから見え隠れする情報を消化していく快感。実に映画的で、これこそまさに豊潤な映画体験と言うべきものなんだろうね。最後はこれまで不安定ながらも繋がっていたディスコミュニケーションがついに瓦解して爆発した瞬間、エンドロールが流れだす。完璧。久々にエンドロールと共に拍手をしたくなってしまった。上映中ずっとスクリーンにかじりついて映画に没頭し、幸福感と心地良い疲労感に包まれて映画館を後にするあの感覚、久々に味わった気がする。素晴らしかった。こないだの横道世之介は映画祭って環境だったから、ここの感じとはちょっと違ったんだよな。
あとアッバス・キアロスタミをサポートしたであろう日本人が設定した細かい仕掛けも素晴らしいよね。例えば「新宿から11時の電車で帰る」って事はそんなに遠い場所ではないんだろうなあ、と思わせながら、新宿の街からいきなり静岡駅前にジャンプする。最初は新宿に広いロータリーと分かりやすい銅像がなかったからだろうかと思ったのだけど、明子が袋井出身だって分かった時に、もしかしたらこれは意図的なんじゃないかと、はっと気付くんだよね。静岡は新宿よりも遥かに袋井に近いけど、袋井まではまだ少し届かない。そんな場所に、自分を心配してくれる、そしてかつての自分に戻れる場所であるおばあちゃんが待ってるんだよ。あそこでタクシーを降りて、おばあちゃんの元へ駆けよれば、袋井まではきっと行けるんだよね。だけど行かない。行けない。新宿に戻っちゃう。そして新宿から明子が向かった先が横浜だって事は、同じ時間帯、おばあちゃんと明子は同じ方向へ移動してたってことだよね。それに気付いた時の胸を締め付けられるこの感覚。本当に素晴らしいと思う。
だからこれ純然たる日本映画なんです。「袋井」って設定にグッと来れるのは日本人だけだろうし。例えば福岡や仙台や名古屋みたいな都会じゃない。例えば延岡や五所川原宇部みたいに遠くない。帰ろうと思えばわりと簡単に帰れる場所。本当に絶妙だと思う。あと深夜の文化放送から流れる高田みづえとかね。今回俺が見た劇場は殆どが香港人だと思うけど、きっとこの映画を隅から隅まで楽しめたのは、日本人の俺だけだろうな。
そういう意味でも、本当に多くの日本人に見て欲しい大傑作。高梨臨ちゃんの代表作はシンケンジャーよりもこっち、って多くの人に思ってもらえるようになったらステキだと思う。