16連休明け

16連休明けなんて頭が回るわけがないのである。ましてやこの場合は、日本で過ごした享楽の日々と、中国の様々な不便や苦痛を伴う日常、という大きな差があるのだ。日本の生活がそのまま地続きになっているのではないのだ。地続きでも辛い連休明けの時間を、よりによって異国で過ごさねばならないのだ。その差異たるや。まだ日本にいた昨日は、人生で最も多く「行きたくねえ!」と呟いた日だったと思う。台湾上空の機内のトイレでも思わず呟いたと思う。多分あれが最後の「行きたくねえ!」だった。その後は香港空港のトイレで隣の中国人が例の如く大音量で痰を吐くのを見て、「やっぱやだこの国!」に入れ替わった。そしてそれは未だに続いている。
せめて「なかなか経験できない貴重な体験」という耳障りのいい言葉で包んでみるのだけど、そんな経験が今後何に役に立つのだろうという気がするし、そんな慰めを軽く吹き飛ばしてしまうほどの憂鬱を、この国と今日という日はこちらに与えてくれる。ありがとう。でももう結構です。
しかし現実はそんな自分にかまっていてはくれない。むしろ、脱臼しそうな勢いで強引に腕を引っ張り日常へと引き込んでいく。重い重いケツを蹴り上げる。職場の近くでは耳をつんざくような爆竹の音が猛威を振るっていた。ああ、今「猖獗」という言葉が頭に浮かんだ。これは確か「よくないものがはびこっている」という意味だけども、自分にとってはその言葉がぴったりの状況である一方で、中国人にとっては新年を迎えるための重要なイベントなのだろう。郷に入っては郷に従え。全くその通り。その言葉はこんな憂鬱な状況でも、確信を持って正しいと言えるし、これからも揺ぎないと思うけど、こちらの生活のサイクルをまた取り戻すまではその言葉の呪詛に苦しめられることになるのだと思う。うるせーよ!!!ばんばんばんばんばんばんうるせーよ!!!
いや、今「ばんばんばん」と爆竹の音を表現したけど、実際はこうではないな。あなたは滝の音をご存知だろうか?しかもとても大きい滝。あの滝のようなゴゴゴゴゴという低音のドローンと、パンパンと弾ける軽い高音が入り混じった独特の音である。実際に聞いたことはないけど、50トンくらいの大豆を一気に滑り台から下へ流し込んだ時に、きっとあんな音がすると思う。最初はどこかの工場で大量の穀物を袋詰めする音か何かかと思った。
ちなみに中国の爆竹は真っ赤である。だから大量の爆竹が打ち鳴らされた後には、夥しい量の赤い残骸が散らばっているので、遠くから見ると本当に血の海にしか見えない。三隅研次も真っ青の、真っ青の三隅研次も真っ赤になるほどの血飛沫の世界だ。これは嫌いじゃない。
ところで中国で新年に爆竹を鳴らす理由は、その昔人を食らう悪魔が、竹が焼ける時のパンパンという音を嫌がった、という故事から来ているそうだ。仮にその悪魔が、女の喘ぎ声が大嫌いだったら中国の新年は大乱交祭りだったのだろうか。惜しい話である。逆に中国は常にやかましい国なのだから、完全な静寂が苦手な悪魔という設定だったら、新年くらいは静かで平穏な国になってよかったのに。何やっているのだ悪魔。もう少し考えろよ悪魔。人のことを考えられる悪魔になろうよ。がんばろうよ。君ならできるよ。


さて、一体何なのだろう、この文章は。急にエッセイ風になったこの中途半端な長文は何なのだろう。そして日本に2週間帰ったからといって、2週間前までまるで平気だった中国での生活に、ここまで陰鬱な思いを抱え込んでしまっているのは何故なのだろう。
理由はいくつかあるだろうけど、その中でも最大の、いや、唯一の、だな。「いくつか」じゃなくて、ただひとつの理由はもうわかってるんだ。恋をしたからだ。日本人に恋をしたからだ。日本人に恋をしたのに中国にいなくちゃいけないからだ。こうなることはとっくにわかってるから中国に来る前に自制したのに、この16日間でその禁を解いて、会ってしまったからだ。4インチの液晶画面に依存するしか無いってわかってたのに、そしてそれでは完全に自分を、関係を、充足させるには不足だってわかっていたのに、踏み込んでしまったからだ。郷に入っては郷に従え。だけど俺が愛してるのは日本人の女の子なのだ。そしてそんな下らないセンチメンタリズムをあざ笑うかのように、真っ赤な残骸の中に潜んでいた一発の不発弾が、突然バン!と音を立てるのである。