ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

言うまでもなく、大いにネタバレを含んでいます。











結局、俺はこの作品は「登場人物の自我」でしか完結させる事が出来ないんだと思ってた。12年前の「気持ち悪い」を聞いてからずっと、この曖昧なままの作品の輪郭を、能動的な主人公の「自我」でクッキリさせる事でしか終わらないと思っていた。


だからこそ、最後のシンジの「綾波を返せ」「綾波、来い!!」には鳥肌が立った。
そう!!そういうことなんだよ!!シンジ!!



13年前のゼルエル戦で、活動限界になった初号機を動かしたのは「ここで動かなきゃみんな死んじゃうんだ」という思いだった。だけど今思えば、それは酷く曖昧なものだったんだと思う。それは、実体の分からない使命感。自分じゃない、誰かの希望だ。結局、あの頃のシンジは最後まで誰かに強制され、誰かの思いを託され、ただ受動的に人類補完計画のトリガーとして機能してしまったんだから。さらに言えば、序のラミエル戦の時点でもそうだった。彼は自分のためではなく「私たちの願い、人類の未来、生き残った全ての生物の命、あなたに預けるわ。頑張ってね。」 という言葉を受けて、エヴァに乗った。



だけど今度はそうじゃない。彼は、初めて自分のためだけにエヴァの力を使った。あれだけ誰かの指示に従順に従うことでしか生きていけなかった彼が、初めて自我を見せた。今回、活動限界のエヴァを動かしたのは、紛れもない彼自身の自我だった。そして、一貫してシンジが自我を持つことを要求し続けたミサトの「自分のために行きなさい!」の絶叫。本当に震えた。


もちろん、その後のセリフや序でも触れられていた通り、シンジとレイの恋愛感情を人類補完計画のトリガーとしようとするゲンドウと冬月の企みはもう分かり切っている。シンジは今回も、彼らのシナリオ通りに動く操り人形に過ぎない。現時点では。



だけど、それがなんだって言うんだろう。この物語の主人公は、いまや自我を持っているのだ。誰かの指示に従順に従うのが処世術であり、ただ流されるままに全てを受け入れ、デストルドーが精神状態の中心になっている、かつての主人公ではない。今の彼にあるのは、曖昧な「誰かに愛されたい」ではなく、明確な「目の前の人を愛したい」という自我と、強烈なリビドーだけだ。



12年前にこの物語が終わらなかったのは、主人公が全てにおいて曖昧だったからに他ならない。だけど、今の主人公は、碇シンジはそうじゃない。この物語、やっと終わるよ。この強烈な自我と、丸々残ってる2話分の尺。そしてもう一人の主人公である綾波レイの自我。絶対この作品は終わるよ。やっとケリがつくよ。


それを確信できたことが、俺は本当にうれしい。
やっと、心からの「おめでとう」が言えそうだという確信を持てたことが、何よりうれしいよ。