ウンコを我慢する時は最後が重要

昨日の首都高。めちゃくちゃ混んでたんだよね。なのに、そんな日に限って、昼に食ったラーメンの油分が大いに俺の腸に作用して、お腹がぐーきゅるるるるっとなってるわけだ。市川を過ぎたあたりからアレ?とは思ってたんだけど、まあ大丈夫かって思って油断してたのがマズかった。
降りるICまであと4キロ、って所で完全に大渋滞にはまってしまう俺のクルマ。そして風雲急を告げる俺の腹。何度となく繰り返される大波と、それに抗う俺の肛門括約筋。


あと3キロ。ラジオは81.3。グールヴライン。まるで耳に入ってこない。
あと2キロ。いつもの看板。だけど俺のお腹はエクストラオーディナリー。
あと1キロ。早く動けこの渋滞。
あと700メートル。早く!早く!早く!
あと10メートルで降り口に滑り込める。どけ!!どけ!!右に寄れ!!俺に左の進路を譲れ!!!!



そしてやっと降りる事が出来た。だけど、びっくりするくらいアクセルを踏めない。アクセルを踏むための筋肉の動きは、肛門括約筋を緩める事にそこで気付いたからだ。肛門括約筋を締める動きと、右足の足首を伸ばす動きは、相容れない関係なのだ。ああ、生命の神秘。人体の機構の不思議。


しかし何とかそこからまた1キロほど走り、ようやく目的地に着く。車から飛び降り、もう目標はトイレのみ。大丈夫、そのトイレまでのルートは完璧に把握してる。そしてこの時間なら、そこのトイレは絶対に誰かが使ってることはないはず。大丈夫だ。幸い、今は恐らく7度目くらいの大波を越えたばかりの所で、あと数分は余裕がある。そこのトイレに行くまでの歩行に問題はない。


そして俺は分かってる。何度も経験したから分かってる。こういう場合は最後が肝心なんだ。肛門括約筋と大腸は、脳と極めて親密な関係にある。脳が緊張した状態を解いた時、肛門括約筋と大腸はそれまでの緊張を解き放ち、disarmし、全てを自由にさせてしまうのだ。つまり、全てを脱ぎ去って玉座に座るまで、一切の妥協は許されないのだ。ああ、もう間に合った。その感情を全てを脱ぎ去る前に持ってしまったら終わりなのだ。




それを、分かっていたのに。知っていたはずなのに。




結論から言うと、今回の被害はゼロじゃなかった。大丈夫、最小限の被害だ。確かに最小限だ。捨てるか、入念に洗ってまた使うかを議論できるレベルだ。だけど、今回はきっと無失点で、そう文字通りクリーンシートで行けたはずなんだ。
なのに、なぜ俺は最後の最後で油断をしたのか。トイレに入る。カギを閉める。ベルトを緩める。安心する。悲劇の感触を味わう。全てを脱ぎ去る。玉座に座る。ああ、あと2工程!!その2つの工程を前になぜ俺の脳は安堵の信号を送ったのだ。



これは経験だ。次への助走だ。
僕たちはこの過ちを、そしてその反省を、未来に継承していかなければならない。





ところで、こういう時はアンダーワールドのボーンスリッピーが似合うと思わないか?それもeverything×2のバージョン。ほら、この曲の例のシークエンスが鳴り響くその瞬間が何度も来そうになるのだけど、溜めて、溜めて、溜める。そこが肛門括約筋の我慢の勝負そのものだ。そして溜めに溜めたシークエンスが、やっと動画の2:14の所で出てくる。その瞬間が玉座に座って散々貯め込んできた苦痛をぶっぱなした瞬間だ。そして2:42からのビートが引っ込んでシークエンスだけになる所が、苦痛をすべて吹き飛ばして玉座の上で深い深いため息をつく瞬間だ。
だからどうした。